油ヶ淵は矢作川河口の氾濫原を流れる二級河川・高浜川と、 支川の長田川や半場川の接続点にある愛知県唯一の天然湖沼です。油ヶ淵ができたのは比較的新しく、 江戸時代の初めのころに、矢作川が運ぶ土砂によって三河湾の入り江がせき止められて誕生しました。
愛知県の中の油ヶ淵の位置 |
面積 | 周囲 | 平均水深 | 容積 | 流域面積 | 流域人口 |
0.64km2 | 6.3km | 3m | 200万m3 | 58.3km2 | 89,843人 |
※流域人口は2004年度末現在
湖に流れこむ地域(流域)は、北は新幹線三河安城駅、東は安城市桜井町、南は西尾市米津町まで広がっていて、
その広さは約58km2(碧南市の約1.6倍、安城市の約0.7倍、西尾市の約0.8倍、高浜市の4.5倍)あり、
高浜川、新川を通して衣浦港から三河湾へと流れ出ています。
湖の大きさは南北方向、東西方向に約2km、周囲の長さは約6km、湖の広さはナゴヤドーム約13個分の約0.64km2あります。
水深は平均で約3m、最も深いところでも5m程度で、ナゴヤドームをコップにして油ヶ淵の水を全部そそいでも約1杯と少しであり、
比較的浅くて小さな湖といえるかもしれません。
油ヶ淵の周辺の地盤の高さは海抜0m程度しかなく、水面は満潮時には海面より低くなるため、
海の水と河川の水が混じりあう(汽水域)独特の環境となっています。そのため、高浜川と新川に海の水を食い止める扉(防潮水門)が
整備され、台風時の高潮などから地域を守っています。
また、同時に周辺の農地に海水の塩分が入って作物がとれなくなってしまうこと(塩害)を防ぐために、
油ヶ淵の水位と海の水位の差を利用して干潮時に開き満潮時に閉まる扉(常時排水ゲート)が設置されていて海水の侵入を抑えています。
油ヶ淵の誕生と移り変わり
油ヶ淵一帯は約400年前までは北浦と呼ばれる海の入江でした。
江戸幕府によって慶長8年(1603)に矢作新川が開削されると、北浦の河口付近に上流の土砂が大量に流れこむようになり、
北浦の東口に当たる米津から鷲塚の間が約10年の間に埋め尽くされてしまい、陸続きの半島に変わってしまいました。
また、北浦一帯も年々水浸しとなったため、幕府は正保元年(1644)に米津から鷲塚の間に堤防を築き、北浦は海から断ち切られて湖沼となりました。
これが油ヶ淵のはじまりです。
ところが海への出口をとざされた油ヶ淵へ、長田川、稗田川、高取川、半場川、朝鮮川などの川の水が注ぎ込み、
その上、矢作川の河床より湖面が低かったため、雨が降った時には沿岸の村々は水害により大きな被害を受けました。
そのため、鷲塚村上流を堀割って、現在の蜆川に相当する海への排水路をつくりました。しかし、新たな水田開墾が進み、
1本の排水路だけでは足りなくなったため、新たに衣浦港へ排水する現在の新川に相当する排水路が宝永元年(1704)に建設されました。
明治14年(1881)には明治用水が通水し周辺の新田開発が活発となり、明治用水の落ち水が稗田川、長田川、半場川、
朝鮮川を通じて油ヶ淵へ流入するようになりました。
しかし、一度豪雨になると沿岸の水田は冠水し農作物への被害が続くため、 昭和6年(1931)に高浜川の開削工事が始まり昭和10年(1935)に完成し現在の形になりました。
土地の利用を見ると、昭和30年代(1955〜1964年頃)には流域の90%以上が水田や畑などの農地でしたが、 人口の増加や工業化に伴って市街地の整備が進み、平成28年(2016)には市街地は流域の約40%を占めるまでになっています。流域の4市の総人口は、昭和40年(1965)から平成28年(2016)にかけて、約47万人と約2倍に増えています。
国土交通省 国土数値情報より作成
土地利用の変化 |
流域4市総人口 |
注:西尾市は、2011(平成 23)年に一色町、吉良町、幡豆町と合併したが、 比較のため 2005(平成 17)年から2010(平成 22)年は西尾市、一色町、 吉良町、幡豆町の人口の合計を示している。 |